2011年11月23日

「アビコ筋ゴルフクラブ」

「あびこのゴルフの打ちっ放し場のところを・・・」と言うと、「ハイ、わかりましたー」とタクシーの運転手さん。
いつ頃からあったのか?
手持ちの昭和50年の航空写真にははっきりと写っています。

昭和50年頃のアビコ筋ゴルフクラブ

その、あびこのゴルフの打ちっ放し場「アビコ筋ゴルフクラブ」がなくなり、昨日スーパー「ライフ」がOPENしました。
これでこの交差点のそれぞれの角は「ローソン」、「ファミリーマート」、そしてこの深夜0時まで開いている「ライフ」とが軒を連ね、
「なんの激戦区やねん!」と言いたくなる状態になりました。w

アビコ筋ゴルフクラブ

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓移り変わり↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

ライフ

個人的にはゴルフはしないので、生活が便利になって非常に喜んではいるのですが、やっぱり寂しい気持ちも残ります。
で、今日は大したネタでもないのに記事に残しておこうと、久しぶりの更新な訳です。

解体中の「アビコ筋ゴルフクラブ」↓

アビコ筋ゴルフクラブ解体中
posted by 湯屋 浸 at 20:36| Comment(2) | 依羅や我孫子、住吉のことなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月17日

遠里小野の菜種油

先日の毎日新聞に、ナタネには放射性物質を吸収する効果があり、チェルノブイリのナロジチ地区ではすでに日本のNPO法人が2007年より「菜の花プロジェクト」を始めているという記事が載っていました。
ナタネにはカリウムやカルシウムと性質が似ている放射性セシウムやトロンチウムを根が吸収、茎などに蓄えられる性質があり、更にはこうした土壌改良だけでなく、収穫した菜種油には放射性物質が含まれない為、ディーゼル燃料に加工したり、茎や根からはバイオガスを作る計画で、最終的に残ったものは低レベル放射性廃棄物として処理されるのだといいます。

もちろん東日本大震災についての記事で、福島県にも菜の花をという記事ですが、

その菜の花で思い出したのが、遠里小野の菜種油です。
ご存知の方も多いとは思いますが、昔遠里小野を中心にあの辺りでは菜種油の生産が盛んに行われていました。
依網地区でも杉本村を中心に、江戸時代(1600年代)には稲と木綿の栽培がすでに盛んであったようですが、1800年代から明治にかけて干大根、薩摩芋、菜種が盛んになり、菜種は綿と並んで農家の主要な収入源であったと言います。
で、実は証拠こそ無いものの、最近私の職場では、当時から引き継がれて栽培(保存)されていたといわれる菜の花を栽培しています。
残念ながらこういうものは犬や猫みたいに血統書がある訳ではなく、DNA鑑定なんかも無いので、信用するしかないのですが、頑張って保存栽培していきたいと思っています。
それにこの菜の花を元々保存栽培してきたのがなんと依網の方なんです。

苗から育てましたが、今ではこの(写真)の通り、立派に育ち、種も形が出来てきました。
こうなるとわが子のように可愛いですね。
毎日たくさんのミツバチがお起こしです。(^^)

遠里小野の菜の花

遠里小野の菜の花
posted by 湯屋 浸 at 22:02| Comment(4) | 依羅や我孫子、住吉のことなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月15日

大依羅神社 11回目 例祭日変更

今年平成23年度より、大依羅神社の夏と秋の例祭日が変更になりました。

夏祭・・・・・7月第1土曜日が宵宮、第1日曜日が本祭(以前は7/11・12)
秋祭・・・・・10月第1土曜日が宵宮、第1日曜日が本祭(以前は10/11・12)

主な神事と年中行事
1月 元旦祭(午前零時)
1月 とんど焼き(1月の第2月曜日)
4月 春祭(4月16日)
7月 夏祭(7月第1日曜日※前日宵宮)
10月 秋の大祭(10月第1日曜日※前日宵宮)
11月 七五三祝祭(11月15日、16日)

大依羅神社例祭日変更の件
posted by 湯屋 浸 at 10:38| Comment(2) | 大依羅神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月17日

松竹新喜劇 藤山寛美 お種と仙太郎

松竹新喜劇の藤山寛美の作品で「お種と仙太郎」というのがあります。
住吉神社境内で茶屋を営む姑(藤山寛美)と息子夫婦。
そこで繰り広げられる嫁いびり。
舞台の背景には太鼓橋が。
住吉踊りの笠を土産に持った参拝者も登場します。
私が特に目がとまったのは「住吉名物やき蛤」の看板。
下のYouTubeでは確認しにくいと思いますが、舞台向かって左側、住吉神社のハッピを着た人の後ろ側の看板。
30秒から43秒の間に映っています。
蛤は話に聞くだけで、今はもうそんなの売ってないですよね。
住吉大社好きとしては持っておきたかった作品。

松竹新喜劇 藤山寛美 お種と仙太郎 [DVD]
松竹新喜劇 藤山寛美 お種と仙太郎 [DVD]


posted by 湯屋 浸 at 18:40| Comment(0) | 依羅や我孫子、住吉のことなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月20日

泉穴師神社(いずみあなしじんじゃ)

市場釣師さんのお誘いで御同行させて頂き、我孫子つながりで、泉穴師神社へ行ってきました。
行った理由はそれだけです。(笑)
泉穴師神社(泉大津市豊中)の隣が我孫子なんです。
全国に「アビコ」という地名は、おそらく15箇所前後あると思われますが、その中のひとつ、泉大津にも我孫子という地名があるのです。

まずは簡単に神社について。

泉穴師神社
http://www4.ocn.ne.jp/~anasi/
式内社で和泉五社のひとつ。
和泉国では大鳥大社に次ぐ二宮。
主祭神は、
農業の神 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
紡織の神 栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)


大きな地図で見る

創祀年は不明ですが、こちらも住吉の大依羅神社同様、結構古い神社だそうです。
白鳳年間(672年頃)とも、神功皇后の頃とも言われています。

で、この地の氏族のひとつに我孫(あびこ)公(きみ)というのがありました。
穴師(豊中町)の隣です。
神社の社伝によれば、
「豊城入彦命(崇神天皇の第1皇子)の曽孫、御諸別名の裔、上毛野八綱田命の孫、我孫公、神主として当社の神戸に居り、代々我孫公を襲名し、ほとんどこの郷の領主の如き格を為す。因ってこの地を阿比古と呼び、終に我孫子荘と称す。今此郷を穴師村と称するより『阿比古』と呼ぶ方が普く近郷に通ず・・・・」
と記され、あまり有力な豪族ではなかったようですが、我孫公の本拠地であることから地名「我孫子荘」「我孫子郷」が生まれたと記されているそうです。
そして、中世には神職兼武将として地侍と連合し神領を広げたが、信長によりことごとく没収となったとも記してあるそうです。

また、網曳御厨(あびこのみくりや)が当地にあったので、阿比古の地名が生まれたとの説もあるそうです。
御厨は内膳司の所領で、その住民は国衙への雑役免除の特権を持つ供御人として雑免田を耕作しながら、朝廷への供御(天皇への食物)を納めるのです。
摂津の吹田御厨、河内の大江御厨、和泉の網曳御厨などがこれです。

今回興味深かったのは、享禄四年(1531年)には我孫子刈田城というお城があったらしいのです。(続応仁記巻二)

また、明治20年に長井村と辻村が合併し、我孫子村が出来たと。

そう、カリタとかナガイとか、聞いた名が多いのも面白い。

今回の主な参考文献は「THE アビコ」。
※「THE アビコ」が参考にしたのは「我孫子志」(地元郷土史家:辻川季三郎氏)

その他の参考Webサイト
「あびこ百科」
http://www.tecta.co.jp/gokuraku/izumi1.htm

こちら↓「古城探訪」には刈田城間違い説が載っています。
http://www.geocities.jp/kitamejirou/new_page_121.htm

以下、撮った写真をご覧ください。

一の鳥居
泉穴師神社 一の鳥居

一の鳥居をくぐってすぐ、お地蔵さんがあり、そこには「水源保存地」の石碑。
近所の人は水を汲みに来るのでしょうか。
水源保存地と地蔵さん

もう少し行くと穴師小学校の前に苅田城跡の石碑が。
苅田城跡石碑

正面の鳥居(鳥居の向こうに石の反橋が見えます)
泉穴師神社 正面鳥居

恐らく上の反橋は神さんが渡る橋で、人は渡ってはいけないはず。
反橋の横にはちゃんと平橋がありました。
泉穴師神社 反橋と平橋

そして反橋のたもとにある溝の奥に見える空間。
やはりここには昔、川か池があったのでしょうか?
下は川?

御本殿
神さんも夫婦なら、鳥居も夫婦。
泉穴師神社 御本殿

本殿向かって右に春日社、左に住吉社。
共に重要文化財。

春日社
春日社

住吉社
住吉社

住吉社の隣には明治に近隣の村から合祀された社、穴師天満宮があります。
これは元、坂原村社の菅原神社のお社を移転させたもので、そこには各村にあった、
菅原、春日、加茂、琴平、厳島などの神社が合祀されていました。
穴師天満宮 (坂原村社 菅原神社)

他にも末社が沢山あって、
熊野三神、戎っさん、多賀社、愛宕社、楠木社、大国主社、八幡社、兵主社、大歳社、などがありました。
神さんの宝庫ですね。
posted by 湯屋 浸 at 17:09| Comment(0) | 依羅や我孫子、住吉のことなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月21日

『住吉は「1800年。」展』に行ってきました。

大阪市西区にある大阪市立中央図書館の一階エントランスギャラリーで行われている大阪市史編纂所主催の『住吉は「1800年。」展』に行ってきました。

『住吉は「1800年。」展』

これは大阪市史編纂所さんが所有する住吉大社を中心としたその地域にまつわる資料を展示公開しているものです。
まず、ネーミングが面白いですよね。
あきらかに奈良の平城遷都1300年を意識しています。(笑)

この1800年と言うのは来年が住吉大社の御鎮座1800年にあたるので、そのことを言っているんですね。
もちろん御鎮座と遷都とは全然違いますが、住吉(神功皇后)のことは記紀にも記されていることから、昔からかなり重要視されているところだということはすぐに想像がつきますし、それこそ遣唐使が出航する際には必ずこの住吉大社で海上安全の祈願を行い、船自体にに住吉大神をお祀りして出航したと言われています。

また、南北朝時代、後村上天皇は住吉大社の長居公園通りをはさんだ南側にある、正印殿(住吉大神の神印を納め置いた処からこう名づけられた)内に住吉行宮を置き、この地で崩御されるまでの数年間は住吉で政治をされていたので、、一時的ではありますが、この住吉が首都の役割をしていたということになります。
あと余談ですが、この正印殿、関西人には不人気の徳川家康も大阪冬の陣には住吉に陣を張っています。

お馴染みの初辰猫などの展示もありました。
住吉は「1800年。」展 初辰猫

ほか、鳥瞰図などの絵も多く展示されていて、あまり難しく考えず、目で見て楽しめる展示会でした。
また、29日(日) には14:00〜16:00 同会場5階大会議室にて帝塚山学院大学名誉教授 鶴崎裕雄氏による基調講演、パネルディスカッション、創作舞踊「舞踊ひとりがたり住吉大社縁起」があるそうです。
9月1日まで、何れも無料公開しています。
http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/info/events/index.htm

あと、平成22年10月9日(土)〜11月28日(日)
大阪市立美術館 [天王寺公園内]にて
特別展 「住吉さん−住吉大社1800年の歴史と美術−」
というのがありますので、そちらも楽しみです。
http://sumiyoshi.exh.jp/
posted by 湯屋 浸 at 14:17| Comment(3) | 依羅や我孫子、住吉のことなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月29日

依網池の航空写真

依網池の歴史についてはもっと勉強してから書くとして、今日は私の所有する依網池の航空写真を公開します。
と言っても、そんなに大袈裟なものではありません、国土地理院で購入したものです。

昭和23年の依網池
まず上の最初の写真は昭和23年に撮影されたもの。
外側の赤い線は、川内眷三先生による、想定される元々の依網池の大きさで、
その中の同じく赤い内枠は、この昭和23年時点で現存するよさみ池。

昭和39年の依網池
で、次は昭和39年の依網池。
写真上部に阪南高校(昭和34年開校)の建設が見えますが、まだそのまま現存しています。

昭和50年の依網池
次、昭和50年。
向かって右側の池が、阪南高校の運動場になっています。

昭和54年の依網池
最後、昭和54年の写真。
とうとう向かって左側の池も無くなってしまいました。

今日も特別内容の無い記事でしたが、こうして写真で比べて見るのも楽しいものだと思います。
posted by 湯屋 浸 at 20:04| Comment(3) | 依羅や我孫子、住吉のことなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月24日

我孫子町会館

我孫子町会館

我孫子町会館

あまりにもレトロなので地元の郷土史家である今井さんに訊いてみたら「第一次世界大戦(1914-1918)の時、浜寺公園にあったドイツ軍の捕虜収容所を移築したもの」という回答がありました。
事実かどうか、それ以上調べていないので分かりませんが、浜寺公園と言えば、その前、日露戦争(1904-1905)の時にもロシア兵の捕虜収容所だった所。
と言うことは、ひょっとするとその頃からのものかも知れない。
しかしそれだと、この簡素な木造の建物が築100年以上経っていることになります。
また、第二次世界大戦(1939-1945)後もこの浜寺公園はGHQに接収されていた所で、この時のものだとしても65年は経っていることになります。
まぁ機会があればいつか、もう少し調べてみたいと思っていますが、誰か知ってたら教えて下さい。
それと気になったのが、その我孫子町会館の横に横たわっていた石碑。

我孫子町会館横の石碑と力石

「創立五拾週年記念 我孫子町青年團」とありました。
あと同じく横たわっていた力石。
「ちからいし」と読みます。
「りきいし」ではありません。(笑)
ふたつある石のひとつには「紅鎧」と彫られています。
これもどういう意味なのか?
また、我孫子町会館の横をふと見るとこれまた古い個人宅が。

あびこ観音近くの古い家

あびこ観音の向いにもなります。
蔵が建ってたり、なんと家の屋根が銅板屋根。
これが幻の我孫子神社址だったら・・・と勝手な想像をしてしまいます。

今日はこれ以上書いても、あまり根拠のない私の想像ばかりなので、この辺で。
posted by 湯屋 浸 at 19:53| Comment(2) | 依羅や我孫子、住吉のことなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月17日

大依羅神社 10回目 奴能太比売神社(ぬのたひめじんじゃ)と八阪神社

この神社も大依羅神社に合祀された神社で、神社址は現在、杉本町会館(元杉本町青年会館)になっています。

杉本町会館


大きな地図で見る

杉本町会館内には神社址の石碑が建っています。

奴能太比売神社・八阪神社址石碑

奴能太比売というのはどういう神さんだったのか?
御鎮座はいつ頃だったのかなどは不明。
「依羅郷土史」によると、「式内社に属していたが、神殿は明治維新前より既に廃絶し、八阪神社境内に小祠として存続していた。」とあります。
「摂津名所図会大成」には、“摂津志によると”ということで、杉本村野々太池(ののたのいけ)の側(かたわら)にあったが、今は埋もれて田圃(でんぼ:田んぼ)となり、野々太という字名がある(だけ)と書いてありますが、私の資料では“野々太”という字名はなく、杉本町会館の北側が池か沼であった記録はありますが、池の名はわからず、字名は「美濃邑」と思われ、また、杉本町会館の南側には「野神」という字名がありますが、結びつけるにはちょっと遠い。
それよりも、杉本町会館よりももっと南西、JR阪和線杉本町駅よりもさらに南側(大和川側)、住所で言うと山之内4丁目の山之内住宅あたりの字名に「奴野田」があります。ここは杉本ではなく、山之内村になりますが、まずここに神社があったと考えるのが普通ではないでしょうか?と思うのです。
ここはすぐ南側が大和川です。
と言うことは「この大和川が出来る以前は、この川の所に奴野田池という池があったんじゃないか」と考えてしまうのです。
大和川が出来たところということは、元々土地の低かったところと考えられ、ここに池か沼(湿地帯)があったのではと。
で、そこより少し高い所に神社を建てたと。
まさに大依羅神社と依網池の関係と同じようなものが、規模は小さくてもここにも同じようなものがあったんじゃないかと思うのです。
その後、杉本町会館が八阪神社だった頃、こちらに合祀されたのではないかと。
もちろん私の想像ですので実際のことはわかりませんが・・・(笑)
一方、その八阪神社は御存じの通りですが、一応これも「依羅郷土史」によると、「御祭神が素戔男尊・櫛名田姫大神・八柱御子大神で、明治初年村社に列す。」とあります。

杉本町会館の裏手に行くと大きな楠の木が見え、そのそばに石燈籠が横たわっていました。
神奈備さんのサイトによりますと、「平成十六年秋に倒壊の恐れ有りと石燈籠を解体」と紹介されていました。

杉本町会館楠の木

杉本町会館石燈籠
posted by 湯屋 浸 at 20:42| Comment(0) | 大依羅神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月17日

大依羅神社 9回目 道祖神社(どうそじんじゃ)

草津大歳神社同様、昔は苅田村にあり、今は大依羅神社に合祀されている神社。
ただ、こちらは草津大歳神社同様と言っても御本殿への相殿ではなく、末社となっています。

大依羅神社末社 道祖神社

御祭神は
久那斗(くなど)大神
八衢比古(やちまたひこ)大神
八衢比売(やちまたひめ)大神

元々の御鎮座や、具体的な場所は不明。

この3柱の神は、道祖神として集落や村の入り口、境界線、道路の分岐点などに祀られ、悪霊・邪霊・その他(疫病や自然災害)の災いが、その村に侵入するのを防いでくれるとされる神。
行く道を示してくれる交通の神でもあります。
そのことを考えると通常は村の境界や辻などにあるのが一般的な為、草津大歳神社内にあったとも考えにくいと、勝手に思っています。
元々何処にあったのかは私が知りたい。(笑)
posted by 湯屋 浸 at 19:55| Comment(2) | 大依羅神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月13日

美農里幼稚園

「依羅郷土史」によると大正14年4月(ホームページでは大正15年)から、85年間続けてこられた美農里(みのり)幼稚園が、今月(平成22年3月)いっぱいで閉園されます。
帝塚山学院幼稚園の大正7年にはおよびませんが、依羅地区では一番最初に出来た歴史ある幼稚園です。
よさみ幼稚園(私立)の設立が戦後の昭和28年10月だそうですから、かなり早いですね。

美農里幼稚園は母体が金林寺さんで幼稚園はお寺に隣接しています。
金林寺と言えば前回寺子屋の記事で書きましたが、明治7年から明治19年まで12年間、小学校教育に力を注がれたお寺です。

金林寺
金林寺の御門には美農里幼稚園の表札もあがっています。

金林寺と美農里幼稚園
金林寺の向こうに見えるのが美農里幼稚園。
大きな楠木が見えます。

美農里幼稚園

美農里幼稚園

美農里幼稚園

美農里幼稚園 裏手
美農里幼稚園の裏側

美農里幼稚園 掲示板
写真の掲示板にあるように、3月27日が本当におわかれ会になると思うと込み上げてくるものがあります。
この写真を撮りに行った日も園児たちの楽しそうな歌声が聞こえていました。

以下の文章と写真は美農里幼稚園さんのホームページより
http://www.ans.co.jp/k/minori/index.html
(無断で掲載及び拝借^^;;;)

当園の保育は、一人一人を大切にする個性教育が主流です。
遊びを重視して、子供達の意欲をそそる様な雰囲気作りに心掛け、充分に楽しませる力を発揮できるように、保育を進めていきます。
大きな楠木、銀杏の木のあるすばらしい庭で四季を通して緑や黄色の自然の中で、子供達はのびのびと遊んでいます。

美農里幼稚園 園児たち

美農里幼稚園 園児たち

美農里幼稚園 園児たち

楽しそうでイキイキとした園児たちの写真。
posted by 湯屋 浸 at 10:34| Comment(0) | 依羅や我孫子、住吉のことなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月11日

依羅(よさみ)地区最初の寺子屋

明治5年の学制発布以前、まだ小学校などはなく、寺子屋だった頃の話。
「依羅郷土史」によると江戸時代中期、伊藤東涯(いとう とうがい)の高弟に稲垣秋荘(いながき しゅうそう)という人がいて、その方が苅田福祉会館(草津大歳神社址)の隣にある西光寺や自宅で塾を開き、「読み、書き、算盤」や農業に関することを教えたのが始まりだそうです。
その後明治5年の学制公布まで先生は変わっていきますが、寺子屋自体はずっと続けられたといいます。

西光寺
西光寺
※苅田福祉会館(草津大歳神社址)の隣り

またその明治5年、一旦墨江小学校に移りますが、翌年にはまた西光寺に戻り続けられました。
内容は寺子屋時代とさほど差はなかったようです。
この時の学制制定後の校区は苅田、庭井、掘、前堀の4村。

その後次々と学校が開設されます。

苅田村 明治6年 西光寺借用 教員男3名 生徒 男子51名 女子21名。
    校区は苅田、庭井、掘、前堀。

山之内村 明治7年 金林寺借用 教員男2名 生徒 男子86名 女子46名。
    校区は遠里小野、山之内、沢之口。

我孫子村 明治7年 円満寺借用 教員男2名 生徒 男子79名 女子37名。
    校区は我孫子、杉本、杉本新田。我孫子小学校

その他、寺岡村など。

金林寺
金林寺
※美農里幼稚園の隣り

圓満寺
圓満寺
※吾彦観音寺の向かい

その後、我孫子小学校が円満寺から山之内の金林寺と合併、そして明治19年、その金林寺と苅田の西光寺も合併し、我孫子村の引接寺へと引き継がれました。
学校名は依羅尋常小学校と言いました。
明治19年小学校令発令以降、特に明治23年には校区も苅田、庭井、我孫子、山之内、杉本、杉本新田、寺岡、掘、前堀と大所帯になりました。

ここで気付いたことがひとつ。
地名としての「依羅」は明治22年に依羅村が出来た時が始めですので、依羅尋常小学校はそれ以前(明治19年)に「依羅」という言葉を使っていたこと。
普通逆ですよね。

引接寺
引接寺
※吾彦観音寺の隣り

で、話は少しそれましたが、とにかく9つの村が校区になってしまいましたので、当然のごとく人口増加に伴い、学校就業は2部制になったそうです。
ここでもうひとつ。
余談ですが、この頃(明治28年度)の引接寺への賃借料として支払っていた校舎借入賃は月に1円だったそうです。
参考に書きますと、校長訓導が月給10円、準訓導5円、使丁50銭とあります。

そして明治27年に寺岡村、掘村、前堀村が長居村として独立し、翌年には長居小学校が開設されたのをきっかけに、依羅村も明治30年には小学校を新築、引接寺から現在の依羅小学校の場所に移転しました。
ちなみに依羅小学校の創立記念日はこの明治30年の竣工日5月5日としているそうです。

依羅小学校
依羅小学校

↓クリックで拡大します。依羅地区の元寺子屋
依羅(よさみ)地区の寺子屋
posted by 湯屋 浸 at 21:19| Comment(0) | 依羅や我孫子、住吉のことなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月02日

あびこ餅本舗 元祖 厄除饅頭

節分の時しか販売されない有名な饅頭。
あびこ餅本舗さんの元祖 厄除饅頭です。
今日も朝から行列が出来始めていました。

あびこ餅本舗 元祖 厄除饅頭

株式会社 あびこ餅本舗
大阪市住吉区我孫子3丁目6-15
TEL 06-6691-6723


大きな地図で見る

あびこ観音の記事も書きたかったのですが間に合わず、今回はこれだけ。(^^;;;
posted by 湯屋 浸 at 19:38| Comment(0) | 依羅や我孫子、住吉のことなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月01日

大依羅神社 8回目 草津大歳神社(くさつおおとしじんじゃ)

それまで依羅地区にあった6つの神社が大依羅神社に合祀されました。
現在の苅田福祉会館(旧苅田町青年会館)にあった草津大歳神社もそのひとつ。


大きな地図で見る

依羅郷土史によると、明治40年(大依羅神社の由緒書きでは明治42年)に、明治39年の勅令第220号の「年額三百円以上の収入を有する神社に限り、特に独立存置を許可せられる」という資格に欠けるので、止むなく合祀したのであった。とあります。

ちなみにその6つの神社というのは、
草津大歳神社(苅田)
道祖神社(苅田)
奴能太比売神社(杉本)
八阪神社(杉本)
我孫子神社(我孫子)
山内神社(山之内)
大山咋神社(庭井)
で、道祖神社(苅田)以外は御本殿に合祀されました。
6つと言いながら7つ有りますが、これは依羅郷土史にそう書いてあるのだから仕方がない。(笑)

まぁそれはともかく、草津大歳神社の御祭神は大歳神と牛頭天王で、御鎮座とか何時頃からのものなのかは分かりません。

大歳神は宇迦御魂と同様スサノヲと大市比売(オオイチヒメ)との御子で、元々稲の収穫の神ですが、その後、時代と共に集金の神様(住吉大社の末社にある大歳社が有名ですが)として信仰されるようになりました。

またこの近くにある、元々は尼寺だったという、高野山真言宗の「瑠璃峯 医王院 薬師寺」の御本尊は薬師如来で、ここの御本尊は大歳神の本地仏だといいます。

薬師寺

http://www.yakushiji.com/

寺伝によれば、弘法大師が渡唐(804年)し、大慈恩寺参籠のとき、夢中に薬師如来が現れて「日本は吾有縁の地なれども神国にして仏法に近づき難き故、吾衆生に縁を結ばんため鶴に化し稲の一穂ほくわえ渡り摂津欠郡依網の里に其穂を落し土民に与うゆえ田を作らしめ、住吉明神の御供米とし、またその穂を落せし所を穂落の社と称せよ。実は吾は大歳大明神の本地仏なり」とお告げがあったといいます。
その後、弘法大師は十二神将に、薬師如来は金色の大蛇に守られながら帰朝し、この地に建立したと。
ちなみに帰朝後、金色の大蛇は依網池に没したとあります。
余談ですが、江戸時代この苅田辺りは高槻藩領で、この寺には藩主永井氏歴代の位牌が安置され、忌日の弔いには藩主自ら馬で来られたということです。

牛頭天王の方は祇園信仰ですが、これは恐らく後から祀られたもので、織田信長から焼き討ちにされるのを逃れる為、信長の産土神である牛頭天王を祀ったか、江戸時代に流行した疫病から逃れる為に祀ったかであると考えられます。
何れにせよこの頃から大阪中は牛頭天王だらけなのです。

苅田福祉会館には草津大歳神社址の石碑と、昔から「大歳の楠」と言われる大きな楠木があり、楠木の根元には今でも、恐らく巳さん信仰だと思われる小さな祠があります。
またこの苅田村には苅田(かつた)藤と呼ばれる藤の名所でもあったとか。
藤は現在ありません。

草津大歳神社址の石碑
草津大歳神社址の石碑

大歳の楠(高さ約20メートル)
大歳の楠

巳さん信仰の祠
巳さん信仰の祠

それにしても何故この草津大歳神社は“草津”と付くのでしょうか?

下の写真は大依羅神社内にある草津大歳神社から持ってきたという石燈籠。

草津大歳神社 石燈籠
posted by 湯屋 浸 at 18:12| Comment(0) | 大依羅神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月24日

QRコードを作ってみました。

ネットで簡単に作れるんですね。
abk89携帯サイト

abk89携帯サイト

こちらで作りました。
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posted by 湯屋 浸 at 17:11| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月11日

大依羅神社 7回目 とんど焼き(左義長)

成人式が1月の第2月曜日に変更されたことで、この祝日に合わせて祭りの日を変更したところもありますが、大依羅神社もどうやらそうみたいで今日がとんどでした。

とんど祭

とんど祭
posted by 湯屋 浸 at 19:05| Comment(2) | 大依羅神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月09日

苅田橋

昨年の11月、CMが懐かしい万代百貨店(百貨店と言ってもいわゆるデパートではない)

万代百貨店

の辺りをウロチョロしていたら「苅田橋」という碑を見つけました。
橋自体はもう有りません。
側面をよく見ると「昭和5年改築」とあります。

苅田橋石碑

地元の人に訊くと昔は小さな細い用水路があったと言います。
きっと農業用の水路で、橋は当然それをまたぐ橋。
用水路が細いと言うことは恐らく橋も小さいものだったのでしょう。
手持ちの国土地理院の昭和4年の地図を見ると依羅池から直接引かれているものではなく、これも農業用だと思いますが近くの小さな池から引かれています。

クリックで拡大します。
苅田橋地図

しかしながら橋に村の名前を付けて、未だに碑だけでも残してあるというのは、小さいとはいえ、当時苅田村の人にとっては非常に重要な用水路だったんだろうと想像がつきます。
何時頃まであった橋なんでしょうか?

追伸、
本文には全く関係ないのですが、この日チンドン屋さんに出くわしました。
懐かしかったです。(^^)

チンドン屋
posted by 湯屋 浸 at 17:58| Comment(5) | 依羅や我孫子、住吉のことなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月23日

大依羅神社 6回目 息長帯比売命(神功皇后)

以前書いた記事の文章そのままですが、
第14代仲哀天皇の妻である神功皇后 (じんぐうこうごう) は、仲哀天皇崩御後、朝鮮(新羅)出兵の時に、その住吉大神から「和魂は王の身を守り、荒魂は先鋒として軍船を導くだろう」と教えを受け、住吉大神を祀るため、元々自分に仕えていたその地方の豪族である依網吾彦男垂見(ヨサミノアビコオタルミ)を祭りの神主としました。
これが大依羅神社との関わりです。
大依羅神社は依網吾彦男垂見が自分の祖神である建豊波豆羅和気王を祀ったのが始まりであると言われています。
現在は旧神楽殿に祀られています。

大依羅神社旧神楽殿

大依羅神社旧神楽殿神功皇后

ただ何時からこの大依羅神社に祀られたのかは分かりません。

神功皇后は建豊波豆羅和気王と同じく第9代開化天皇を祖とします。
父がその開化天皇の子孫である近江の国の息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天之日矛(アメノヒボコ)の子孫である※葛城高(桑頁)媛(かずらきのたかぬかひめ)です。
※このブログでは「ぬか」という字が表示出来ないのですが、()の中にあるように、桑偏に頁です。
応神天皇のお母さんですね。
安産の神様としても有名です。
天日矛は阿加流比売の話なんかでも知られていますが新羅出身です。
恐らく葛城族が天日矛の子孫とひっついたんでしょうね。
日本書紀によると天日槍は新羅の王子で、日本に来たのは第11代垂仁天皇の3年春3月とあります。
posted by 湯屋 浸 at 20:42| Comment(0) | 大依羅神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月16日

ツイッター始めました。

このブログの趣旨や内容とは全く関係ございませんが、良ければまたお越し下さい。

http://twitter.com/abk89
posted by 湯屋 浸 at 17:55| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月07日

住吉大社反橋渡初式

行ってきました。
すでにYouTubeにもUPされている方いらっしゃいました。
早いですねー



前回(54年前)は絵馬殿の方から御本殿の方へ渡ったらしいのですが、今回は御本殿の方から絵馬殿の方へ渡っていらっしゃいました。

住吉大社反橋渡初式

そして次の日も行ってゆっくり反橋を眺めてたんですが、前回(昭和30年)と今回(平成21年)の碑が並んでいるのを発見しました。
どちらも「奉改架反橋」と書かれていました。

反橋碑

ちなみにこの日、参加者に配られた記念品のひとつに懐かしのハクキンカイロがありました。

ハクキンカイロ 住吉大社ロゴ入り

エコですね!
そしてなんと住吉大社のロゴ入りでした。
これはレアです。
プレミアものか!(笑)

あと、記事とは関係ありませんが、反橋南側の平橋(石橋)付近でカワセミ発見!
下のくちばしが赤いのでメスですね。

カワセミ

カワセミ
posted by 湯屋 浸 at 20:46| Comment(2) | 依羅や我孫子、住吉のことなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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