2009年08月31日

我孫子の範囲

今日は我孫子の範囲について触れてみます。

変なことがひとつあるんですね。
特に苅田や庭井の方が「どちらにお住まいですか」と聞かれて「我孫子の方です。」と答える方が多いんです。
我孫子じゃないのに。(^^)
全く知らない人が聞くと変に思いますが、この辺りでは充分通用するんですね。
下記のことはその疑問にも少しは役立つと思います。

まず、大昔のことは置いといて明治22年(1889年)に行政が作った依羅村の頃のこと。
それまではバラバラに存在していた我孫子村・苅田村・庭井村・杉本村・杉本新田村(現・浅香)・山之内村に寺岡村・堀村・前堀村が市町村制の実施によりこの地方の古名をとって、依羅村として統合されます。
江戸時代には摂津国住吉郡我孫子村だったのが住吉郡依羅村大字我孫子になったのです。
ちなみに私の住んでいるところは住吉郡依羅村大字我孫子字蓮田と言われていました。
その後明治27年(1894年)に、当時寺岡村・堀村・前堀村の地域内にあった大御池という池の通称が「長居池」であったので、そこから名前をとってその3つの村が1つの長居村として独立。
いわゆる依羅の地域としては我孫子村・苅田村・庭井村・杉本村・杉本新田村(現・浅香)・山之内村の6地域分になりました。
ちなみにもっと昔の依羅の地域は我孫子から言うと大和川を渡った南の方。
堺の北部にもおよんでいました。
多分北花田の辺りまでは。
摂津と河内をまたいでいたんですね。
で、その後、明治29年(1896年)に住吉郡は東成郡に吸収合併され、さらに大正14年(1925年)には大阪市に編入され、現在の大阪市住吉区に属することになりました。

(画像はクリックで拡大します)
我孫子(依羅村)の範囲

苅田や庭井の方が「とちらにお住まいですか」と聞かれて「我孫子の方です。」と答えるのはこういう経緯があるんですね。
明治から大正にかけては同じ村だったんです。

また、特にそれを我孫子と言うのは、昔この地域にいた豪族が依羅吾彦(よさみのあびこ)と言ったところから由来するんです。
「よさみ」も「あびこ」も元々は豪族名だったのです。
なぜ依羅吾彦(よさみのあびこ)と言うようになったのかはまた何時か。
posted by 湯屋 浸 at 21:40| Comment(1) | 依羅や我孫子、住吉のことなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
山之内の朝鮮学校(民団)建国高校が、ある事が意味不明?それも浪速高校の隣て何やそれ!
大国町の朝鮮学校もなんやその場所だ!地域が臭い!
Posted by ケンチャナヨ! at 2015年04月06日 12:37
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