2010年03月11日

依羅(よさみ)地区最初の寺子屋

明治5年の学制発布以前、まだ小学校などはなく、寺子屋だった頃の話。
「依羅郷土史」によると江戸時代中期、伊藤東涯(いとう とうがい)の高弟に稲垣秋荘(いながき しゅうそう)という人がいて、その方が苅田福祉会館(草津大歳神社址)の隣にある西光寺や自宅で塾を開き、「読み、書き、算盤」や農業に関することを教えたのが始まりだそうです。
その後明治5年の学制公布まで先生は変わっていきますが、寺子屋自体はずっと続けられたといいます。

西光寺
西光寺
※苅田福祉会館(草津大歳神社址)の隣り

またその明治5年、一旦墨江小学校に移りますが、翌年にはまた西光寺に戻り続けられました。
内容は寺子屋時代とさほど差はなかったようです。
この時の学制制定後の校区は苅田、庭井、掘、前堀の4村。

その後次々と学校が開設されます。

苅田村 明治6年 西光寺借用 教員男3名 生徒 男子51名 女子21名。
    校区は苅田、庭井、掘、前堀。

山之内村 明治7年 金林寺借用 教員男2名 生徒 男子86名 女子46名。
    校区は遠里小野、山之内、沢之口。

我孫子村 明治7年 円満寺借用 教員男2名 生徒 男子79名 女子37名。
    校区は我孫子、杉本、杉本新田。我孫子小学校

その他、寺岡村など。

金林寺
金林寺
※美農里幼稚園の隣り

圓満寺
圓満寺
※吾彦観音寺の向かい

その後、我孫子小学校が円満寺から山之内の金林寺と合併、そして明治19年、その金林寺と苅田の西光寺も合併し、我孫子村の引接寺へと引き継がれました。
学校名は依羅尋常小学校と言いました。
明治19年小学校令発令以降、特に明治23年には校区も苅田、庭井、我孫子、山之内、杉本、杉本新田、寺岡、掘、前堀と大所帯になりました。

ここで気付いたことがひとつ。
地名としての「依羅」は明治22年に依羅村が出来た時が始めですので、依羅尋常小学校はそれ以前(明治19年)に「依羅」という言葉を使っていたこと。
普通逆ですよね。

引接寺
引接寺
※吾彦観音寺の隣り

で、話は少しそれましたが、とにかく9つの村が校区になってしまいましたので、当然のごとく人口増加に伴い、学校就業は2部制になったそうです。
ここでもうひとつ。
余談ですが、この頃(明治28年度)の引接寺への賃借料として支払っていた校舎借入賃は月に1円だったそうです。
参考に書きますと、校長訓導が月給10円、準訓導5円、使丁50銭とあります。

そして明治27年に寺岡村、掘村、前堀村が長居村として独立し、翌年には長居小学校が開設されたのをきっかけに、依羅村も明治30年には小学校を新築、引接寺から現在の依羅小学校の場所に移転しました。
ちなみに依羅小学校の創立記念日はこの明治30年の竣工日5月5日としているそうです。

依羅小学校
依羅小学校

↓クリックで拡大します。依羅地区の元寺子屋
依羅(よさみ)地区の寺子屋
posted by 湯屋 浸 at 21:19| Comment(0) | 依羅や我孫子、住吉のことなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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